ARCHIVE  ENTRY  COMMENT  TRACKBACK  CATEGORY  RECOMMEND  LINK  PROFILE  OTHERS
<< June 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
2016.12.21 Wednesday

お花畑

よく、「あの人の頭の中はお花畑だ」とか、そのような表現を耳にしますが、私の頭の中には、昨今、おびただしい数の魚が泳いでいるように感じてなりません。もちろん、私の職業は、ミュージシャンであるわけだし、頭の中は、常に音符が一番多く泳いでいて欲しいところではありますが、その魚と音符の比率は曖昧だし、明確にするのが怖いのかもしれません。

 尺八という楽器は、特性上、音を出すだけで、ものすごく大変で(勿論個人差はあると思いますが)、体にも負荷がかかるし、練習をしていると、すぐに過呼吸になって手足が痺れ始め、真冬でも汗だくになり、頭もクラクラしてきます。立ってもいられなくなるまで練習をしたところで、一旦椅子に座り、音楽について考えるのも停止するのです。そして、コーヒーなんかを飲みながら、血中の、濃くなりすぎた酸素濃度が落ち着くまで、魚のことなんかを考えるわけです。痺れや目眩がなくなってきたところで、また練習を再開して、また痺れてきて尺八を持つこともできなくなってきたら一休み、これを繰り返していくうちに勿論尺八も上達しますが、頭の中の魚の数も順調に増えていく感じがします。

 先日、我が家の二階へ続く階段の天井のデットスペースに、釣竿置きを設置しました。今まで釣り具は、庭のテラスに置いていましたが、一応屋根はあれど、野外ではタックルの劣化も否めないので、念願の屋内収納となりました。

 これによって、階段を通る度に、釣り具の光学的な情報が脳に入り、その回数に比例して、また、頭の中の魚の数が増えていくのでしょうか。

 

 

 

2016.12.10 Saturday

悪口

 人の悪口を言うという行為を、否定したいが為に、極力悪口を言わないように努めている自分がいます。不純に聞こえるかもしれませんが、実際、自分でも不純だと感じます。

 悪口や、マイナスのイメージの言葉は、誰に対する言葉であれ、脳の一番奥のほうでは、主語に関係なく、入ってきた分だけダメージを受けていく、という類の文献を読んだことがあります。これが事実だとすれば、対象が自分ではなくても、悪口の多い人間と共に過ごす時間は、自分にとって損な因子が多い時間ということになり、それを覆すだけの、その人と過ごす事で得られるよほどの得が見つからない限り、私はその人物から、物理的にも時間的にも、距離を置こうとすると思います。すなわち、損得でいちいち考えて行動しているがめつい人間だ、ということです。

 しかし、そんな自分が嫌いなわけでもないのです。好きでもないですけどね。

2016.12.09 Friday

行動

 どんなに頭の回転が早くても、行動を決断する際に、頭脳より感情を優先して、結果として賢くない行動をとったように私の目に写れば、やはりその人は、賢くない人としてカテゴライズしてしまいます。しかし、これが、世界の定説というわけではなく、この地球上にいる、73億人くらいの人の中の、たった一人の尺八吹きが勝手にそのような価値観を持っているだけです。

2015.03.21 Saturday

パッケージと中身

 どうも、ご無沙汰しております。ブログの記事によって語尾表現が異なってしまっています。小学校の先生に怒られてしまいそうですが、「ですます調」と「である調」を混在させたい時だってある………いや、あります。あるのです。
 別に混在した文章が「悪」と言い切らなくても良いでしょう。Majar 3rdとminor 3rdの混在するフレーズが、時にはサウンドすることもあるでしょう。3トニックオーギュメントがなんたらかんたらとか。

話は変わりますが、先日、Amazonでスニーカーを買いました。今まで履いていたadidasのスニーカーに、およそ半年ほど前から穴が開いてたのですが、次第に穴が拡大してゆき、通気性が完全に確保された時点で、ついに心が折れて、新しいものを調達する運びとなったのです。足がスースーして寒くて自転車に乗れない、歩けない
 靴を吟味する為に街へ繰り出すのが嫌で、適当な物を、入浴時のネットサーフィンで購入しました。購入に要した時間はおそらく数分。私の家は、9時から21時までしか音を出して楽器の練習ができない為、練習しているうちに大体の店の服飾関係の店は閉まってしまいます。
 私は、洋服などを調達する為に街に繰り出すのに時間を費やす行為が好きではありません。というか、そもそも洋服というものに興味をもてません。私の中では、洋服とは、商品のパッケージであり、箱なのに対し、逆に、人間としての能力がパッケージの中にある中身なのです。飲食店で言えば、店の佇まいが洋服にあたり、料理の味こそが中身、と言ったところでしょうか。私は外食する時、やはり店の佇まいはわりとどうでも良いと感じる傾向があるかもしれないけど、料理の味は凄く気になってしまうだろうし(という程舌がこえているかというと自信はないですが…)、これが料理ではなく、演奏を聴きに行った場合、仮に奏者が全身スウェットだろうが、黒の全身タイツを履いていようが一向に構わないけど、演奏に満足できなければ、即座に退場するタイプの人種なのかもしれません。味が大好きな行きつけのおんぼろラーメン屋が、ある日、内装工事したことにより財政難に陥り、材料の産地を変えた結果、ラーメンの味が落ちた、なんて事があったら、店主に対して、もうこんな店に来ない、などとは発言しないにせよ、黙って行かなくなるかもしれません。
 勿論商業ベースで、製品を沢山売るという目的で考えた場合、パッケージが重要な因子のひとつになるであろうことは言うまでもないかもしれません。ここで、初めて「効果的なパッケージを用意する必要性」というものを、ささやかながら自分の中から見い出す可能性が生じてきます。ただし、悪魔で、「良いパッケージを考え、それに対して時間をかける」という行為は、私の中では、目的ではなく、手段のひとつに過ぎないのです。良いパッケージングを考える事自体が目的(欲望の達成地点)ともなり得る人とでは、やはり多かれ少なかれ温度差が生じる可能性は否めないと思います。
 商業ベースで考え、私もいよいよファッション雑誌を購入して、節穴以下かも知れない二つの目を最大限に駆使して、ナンチャッテオシャレガイを目指すのかというと、今のところその見解には至ってはいません。私の職業で、私はとにかく良い音楽を届けることが一番大切だと思うし、仮に、仕事として良いパッケージングを求められた時には、私の理想の形としては、資本で一流のスタイリストを雇うだけの地位を演奏で手に入れた上で、ファッションはスタイリストに一任して、自分は、その日のステージの為に最大限の練習、努力、集中力を注ぐ事こそが、その日聴きに来て下さるお客様に対してできる最大限の礼儀なのではないかと勝手に思い込んでいます。洋服は、いいスタイリストに選んでもらった素晴らしく似合うものを着ることで、その場をしのげることができるかもしれないけど、演奏はその場でしのぐことは難しい、これが、練習や勉強に比べて、パッケージングに興味を持てない所以となっています。勿論スタイリストという職業を否定するつもりは毛頭ないし、人を見て似合う服を瞬時に選び出せる技能は、私からすれば立派な特殊技能に感じるし、(私にとっては、視覚的世界での絶対音感的な何かとか、相対音感的な何かをもちあわせている人くらい特殊で素敵な能力者に感じます)美味い料理を作れる料理人とも、極上の演奏をできる奏者とも、立派に肩を並べる存在に感じます。
 私の中で、洋服はその場で良いものに着替える事で、本来の自分よりも美しく見せる事ができると言う意味で、「背伸び」という概念を実現させることができるからこそ、私の中で、人を見る時の判断材料として、洋服じゃない部分の因子の重要性が増してきます。すなわち、その人がどのように思考し、行動をしているか、どのような発言をしているか、どのような表情、目、体型、肌をしているか、などです。とある焼肉屋さんのトイレには、「努力するものは希望を語り、怠ける物は不満を語る」と書いてあって、目から鱗が落ちたのを思い出しました。私にとって興味があるのは、希望を語り実現する為の努力をしつづける人だと感じました。
 話は反れましたが、装う事が困難な部分こそ、本質を見抜く上で分かりやすい材料としてうってつけ、というのが私の持論です。そして、先ほど、「仕事として良いパッケージングを求められた時」という想定を書きましたが、そもそも、演奏ではなく、パッケージングが重要視されるような仕事だったとしたら、これこそ私はほとんど興味が持てません。私は、音楽よりも、パッケージングを重要視するような方の意見に興味がない、と、言い切らないにしても、その人一人分の意見を1ポイントだとしたら、音楽を重要視して来て下さっている方の意見は、私の中で勝手に100000倍にされるようなものです。このような、勝手な自分の基準を元にピンポイントで得点を自分の中で倍増させるシステムは、実はいろんな所で発生していました。私は以前、「美しい指輪を身につけて人に自慢をする人がいても、私はその人ではなく、指輪が美しいと思ってしまうんだ」という類の、危険極まる発言をしてしまった事があったのですが、それに対して、「そんなこと言ってると女の子に嫌われちゃうよ」というありがたいお言葉を頂戴したのでした。ただ、よくよく考えてみると、その文脈の「女の子」に嫌われてしまっても、いっこうに構わない自分がいることに気づいてしまったのです。その文脈の中の「女の子」とは、その発言を聞いた時に嫌いになるタイプの女の子、を指すように思われ、そして、そのようなタイプの女の子の意見は、やはり一人につき1ポイント程度でしかなかったのです。逆に、どのようなタイプの人の意見が、100000倍システムに採用されるのかというと、そのようなセンテンスに対しても、反射的でも感情的でもなく、冷静なアナライズをした上で論理的な意見ができる人、という結論にいたりました。そんな人、そうそういるもんか?と問われますと、突然の惚気話で申し訳ないですが、そのひとりが、私の妻だったのです。私は、クラスにいる好きな子以外の全員から愛の告白をされるよりも、たとえ好きな子以外の全員から嫌われようが、そのたったひとりの好きな子からの好意のほうが、ずっと欲しかったのです。思えば、そのようにして、私は欲しい物は全て手に入れてきました。職業としての音楽、素敵な共演者、ささやかな家庭、理解の深い妻、可愛い娘、健康な体、美味いと思う物を食べられる幸せ、努力した分だけは上達してくれる体、大切な人の笑顔。わたしは、本当に心の奥底から欲しいと思う物を明確に定義付けすることによって、そうでないものとを差別化が進み、それにより、本当に欲しい物を手に入れることができたのかもしれません。仮に人が私の事を気の毒に思ったり、不幸だと思おうが、私自身は幸せでしょうがないし、やはり私にとっては、人から幸せだと思われながら自分では不幸だと思っている人生よりもずっと興味があるのです。
またもや話がそれてしまいましたが、私は、背伸びやシークレットブーツよりも、実際に大きくなることの方が遥かに興味があるのです。仮に身長を伸ばすのが現代の医学的に困難だとしても、人間としての能力、価値を伸ばす事は不可能ではないと思うし、価値を高く見せる為に費やせる時間があるのなら、私はやはり、実質の価値を上げる時間に回したいと思うのです。



 
2014.11.30 Sunday

沈みゆく螺旋階段

 前回のブログ更新から、またもや1年以上の期間が過ぎてしまった。あれよあれよという間に、我が娘は2歳の誕生日を迎え、凄まじいペースで、言葉や自我を形成していく。娘の、1日ごとに豊かになっていく語彙や能力を目の当たりにし、それに対して、今日の自分は、昨日の自分と比べてどれだけの事を習得し、前進できたのであろうか。この問いと真剣に向かい合うという事は、私にとって、なかなかに厳しい戒めとなる。
 現在私は31歳。この歳の成人男性に対して、若いとか若くないとか、そんな話は至って相対的な話なので、割愛させていただくが、細胞レベルの話で言えば、着実に身体能力にしても脳の記憶能力にしても、衰えていく方向にベクトルは傾きつつあるのは疑いようの無い事実だと思う。根本的な記憶力は低下し、太りやすい体質へと移行し、肌のシワも増えていき、疲れを感じやすい体になっていく。日を追うということは、1日あたりにできる仕事の量と質が悪化するということを意味すると同時に、残りの生涯、仕事をできる日数、時間が減るという事を意味する。ハードウェアの面だけで見れば、小林鈴勘の価値は、日ごとに下がる一方だ。この事実に直面した私が出来ることと言えば、ハードウェアの老朽化や故障を最小限にとどめる為の努力と、ソフトウェアの向上くらいではないだろうか。
 この、ハードウェアの維持、向上とは、私にとって、具体的にはどのようなことかというと、まず、健康である状態を維持する、ということに尽きる。音楽的な話であれば、今出せる尺八の音量と音質(本人としては本当にまだまだだと思っているが)、これを維持、もしくは向上させ続けるということは、健康な体を無くして実現はまず不可能だと言っても過言ではないと思う。
 健康な体を維持するということは、具体的には、食生活に気を配ること、適度な運動をすること、十分な睡眠をとること、ストレスを感じにくい環境に身をおくこと(逆に、幸福を多く感じられる環境を積極的に構築していくこと)に尽きる。黙って何も考えず流されるままに生きていくと、私の場合は、どんどん健康な体から遠ざかってしまいがちだ。意識的に、このような、健康に良い環境に身をおくよう努力し続けることは、私にとって大切な使命のひとつだ。突如病気になって、ステージにあがれないという事態が起きてしまったらそれは仕方ないが、私生活の中で、病気になる可能性を0.001%づつでも、日々下げる為の努力をし続ける事は、ミュージシャンにとって重要な仕事のひとつに他ならないと思う。逆に、酒の飲み過ぎで翌日の仕事に影響する、なんていう事態は、演奏家としての倫理観から言えば、救いようの無い、最低で最悪な愚行のひとつと言わざるをえないのかもしれない。(と言う自分も、全くそんな事はない、と言い切れるほどに模範的な振る舞いをし続けてきたとは言い切れない。とにかく、過去の失敗や経験を、最大限の効率で今後の糧とできるように心がけている、としか言いようがない…。)
 ちなみに、ストレス云々の話は、「NK細胞」という細胞の話が元になっているので、疑問、もしくは興味を持った方は「NK細胞」を検索していただけたらと思う。おおまかにいうと、人体にはNK細胞という、壊れた細胞を修復する細胞が50億個程備わっているらしいが、笑うことでNK細胞は活性化するのに対し、ストレスを感じたりすると鈍化する、という話に基づいている。
 演奏家としての価値を基準に考えた場合、日に日に劣っていく傾向にある体力を何とか維持できるよう努力をし続けることと、あとは、その体力の低下を圧倒し、またソフトウェアの性能を向上させうるだけの鍛錬、すなわち練習をし続けることが、本質的価値の向上に繋がると信じている。小林鈴勘の価値を維持、もしくは向上をさせ続けるということは、下がり続けるハードウェアの価値を圧倒する程のソフトウェアの向上の為の努力、そして、ハードウェアの価値が下がるのを極力遅らせる為のメンテナンス作業に尽きるということである。私の人生は、この、本当にゴールという存在があるのかもよく分からない、そして加速度的に速度を早めながら海の底へ沈みゆく螺旋階段を必死に駆け登り続ける作業に没頭して終わりそうだ。この光景を想像すると、一見絶え間無く襲って来る恐怖から逃げ続ける悲惨な地獄絵図が思い浮かぶかもしれないが、実は、私自身としては、このような人生が楽しく、幸せで仕方がないのだ。



 
2013.05.28 Tuesday

機能美至上主義の考察

  望んでもいないのに人は歳をとり(勿論望んで歳をとる人もいるだろうが)、自分もいつの間にか三十路という人生の節目のひとつに突入し、あれよあれよと言う間に2度目の結婚記念日を迎え、そしていつの間にかもう生後8ヶ月の娘が隣にいる。
30年も生きてくると、いい加減、自分の思考の論理構造も大分、というか否応がなしに分かってくる。

 例えば、実家にいる母にしても、私の嫁にしても、ティッシュペーパーの箱の外に、何かを覆おうとする。

このような物ををまとわせることにより、生活感むき出しな生のティッシュ箱ではなく、お洒落な模様の布に包まれたティッシュ箱に生まれ変わり、部屋をひとつお洒落な方向に持っていく狙いのようだ。
 だが、待って欲しい。せっかくティッシュという、万能で機能性に優れた発明品のひとつを、わざわざ、その布のケースに出し入れして使うという、手間を加えた行為が、もの凄く無駄ではないだろうか。
 iPhoneという発明をしたスティーブジョブス氏が、iPhoneはケースなどに入れず、生で使って欲しいと思った(?)ように、箱ティッシュを開発した人が、同じように、箱ティッシュはそのままで使って欲しい、と願いながら開発した。か、どうかは知らないが、せっかく機能性に優れた物を、あえて没機能的な使い方をしてしまう行為を、ナンセンスだと感じてしまうのは私だけであろうか。
 同じく、実家の母は、とにかく部屋の中のゴミ箱を隠したがる。客人が家に来て、ゴミが出たときに、客人は、みなそのゴミをどこに捨てればいいのか迷い、横目でゴミ箱を探しつつも、ゴミ箱が見当たらないと、わざわざ言うのも何だからという感じで、諦めてゴミをポケットや鞄の中にしまい込んでしまう人もいる。 
 ゴミ箱とは、汚く、おぞましい物で、なるべく人目に触れない場所に置くべきもの、というのが母親なりの論理なのだろうが、見つけることができないゴミ箱はもはやゴミ箱としては機能してないように思われる。ちなみに、話はずれるが、母親の鞄や洋服のポケットには、いつも使用前か使用済みか分からないようなティッシュの固まりで溢れかえっていたように思われる。結局母もゴミ箱の存在感の薄さに、幾ばくかの不自由を感じていたのだろうか。謎である。
 私の友人のヴォーカリストの女性が最近、非常にかっこいい高級な自転車を買ったのだが、その女性は仕事に行く時、大量の譜面を自転車のカゴに入れて運ばなければならない。それで、カゴに大量の譜面を入れることにより、手持ちの鞄を、譜面の袋のさらに上に置いて運転するようなのだが、その鞄はカゴにはもはや入らず、カゴに入った譜面の袋の上に載せているだけの状態で走行する。それは、当然ながら、非常に不安定で、段差を通るたびに鞄がズレ落ちたりする可能性が生じるわけで、実際何度も鞄が落ちた事案が発生しているようだ。これは、安全面でも問題があるし、例えば、鞄に入った6万円のiPhoneが破損する可能性だってある。これらの問題を解決する為に、私は、自転車のカゴ用のゴム製のネットが百円ショップで売ってるので、それを推奨したのだが、その友人は、「それを使うとおばちゃんに見えるから」という理由で使用を拒否した。一瞬何を言ってるのか分からなかった。例え買ったばかりの6万円のiPhoneがお釈迦になり、そのせいで一時的に仕事の電話等が出来なくなったりして数百万の大仕事を逃したり、連絡先が全消しようとも、とにかくおばちゃんに見られない事を優先する…。世界には様々な価値観があるのだとしみじみと思った。
 このように思考が至ってしまう自分の頭は、つまり、「ファッション性」なんかよりは、遥かに「機能性」に重きを置いているということなのだろう。
 改めて、自分の身の回りのものを見ていくと、自分がどれだけファッション性等を度外視して、機能性にのみ重点を感じているかがより分かる。
これは、私の車の天井である。見れば分かる通り、天井にティッシュ箱がつけてある。この位置にティッシュがあることで、全ての席の人が手軽にティッシュを取る事ができ、なおかつ狭い車内で邪魔になりにくく、使用されることの少ない、無駄な空間を有効活用できる。若干傾いているが、B型の私はまったく気にしない。使えればいい。なお、このティッシュを支えているのが、若干幅の広い輪ゴムで、輪ゴムの天井にあたる部分にはホッチキスでマジックテープがつけられている。このマジックテープが天井の布っぽい素材にくっつくという寸法だ。輪ゴムなので、急ブレーキや急ハンドルで多少車が揺れても、ゴムが滑り止めの機能もしてティッシュが飛んでいく事もない。この輪ゴムもマジックテープも百円ショップで購入できるものなので、費用も200円でとてもリーズナブルなのも魅力的だ。

 これは、自動車のソケットの電源を一般のコンセントに変換してくれるコンバーター。この先にUSBソケット(楽天で200円)をつけることにより、スマートフォンなどを同時に3台まで充電しながら走行できるようになった。これも、やはり、景観と引き換えに、電話のバッテリーの心配をしないでいい、という機能美を手に入れたということである。
ここにiPhoneをはめることにより、カーナビとして機能させつつ、同時にBGMだってネットラジオだって聴くことができる。そしてこのフォンジャックをiPhoneにさせば、車内のステレオから流す事ができる。

こちらは助手席側のドリンクホルダー件スマートフォンスタンド。矢印の部分は購入後ノコギリで切断した。この切断によって、スマートフォンと充電ケーブルが繋がったまま出し入れできるようになった。これもまた外見を犠牲に機能美を手に入れたパターンだ。
これは、ピアノにティッシュ箱がぶら下がっている。上の記事に出て来た輪ゴムがまた登場。輪ゴムにモールをくくりつけて、ピアノにもとから刺さっているビスを少し緩めて、モールをビスにくくりつけた後、またビス閉め直したため、ピアノに傷はつかない。この位置にティッシュがあることで、食卓に座ったままでもティッシュを取ることが容易になり、なおかつ置き場所に困らない位置に固定されていることにより、テーブルなどのスペースを広々と使うことができる。輪ゴムなので付け替えも楽ちんだ。そして、これもデットスペースの有効活用という機能美。景観としてはけして美しいとは言えない。どちらかというと面白おかしい。




これはピアノ椅子。矢印のところを裏から見ると…


椅子にキリで穴をあけ、使用されず余っていたカーテンのフックを挿入して引っ掛ける。これによって椅子の下というデットスペースを有効活用できる。床から荷物が少し浮くことにより、床に物をおくと埃が溜まりやすかったりするのが解消され、掃除機をかけるのも非常に楽になった。ここには普段ピアノの調律セットの入った鞄をぶら下げている。

このワイングラスホルダーは使い方によってはお洒落になるかもしれないが、私の工作で固められた奇想天外な部屋の中ではただただ浮くだけだ。もともと、洗い物をしてる時に、洗い終わったワイングラスが偉そうに場所をとることにイライラしていて、それがこのホルダーを購入するきっかけとなった。これを装着することにより、逼迫していた食器棚の問題が一気に解決し、洗い場の混雑解消の決め手ともなり、買って良かった物ランキング(当社比)で上位に食い込むこととなった。ちなみに私は東急ハンズにて購入。



これは日々発明の事ばかり考えていた私に感化された私の嫁が考案し、作成したシステム。けして広いとは言えない我が家の風呂。桶が床に置いてあるだけでより狭く感じ、さらに桶を風呂の床に置いておくと、湯垢がついて嫌だと思ったのが発明のきっかけのようだ。もともと穴なんてなかったプラスチック製の桶に、ガスコンロで熱して赤くなったキリでジュボっと穴を開けて、百円ショップで買って来た吸盤を風呂の壁に張って完成。やはり人は、不自由を感じることで、何かをひらめいたりするものなのだろうか。ちなみに私ならこの穴をさらに大きくしたであろう。そうすることで、よりぶら下げやすくなると踏んでいる。何故か面倒で、まだ穴を拡張するには至っていない。



これは、もともとあったキッチンの棚に、先ほども登場したカーテンフックの余りをくくりつけて、洗い物を干せるようにした。逼迫する洗い物を乾かす場所の問題は、このシステムによって更に改善されることとなった。なお、ここに鍋やフライパンを干すことも出来る。非常に使い勝手は良い。このシステムを構築するのに1円もお金がかかってないのがまた魅力的だ。廃物利用はこれからの時代にはとても重要なテーマとなるだろうと踏んでいる。資源は無限ではないのだから。




これがまた私の機能性重視の象徴のひとつとも言えるであろう電動自転車。バッテリーフル充電で60km走れる。これのおかげで自転車移動の欠点のひとつである、上り坂による肉体疲労の問題は一挙に解決。半径20キロメートルの移動くらいはこの電動自転車でするようになり、電車代がかからなくなり、体の脂肪も程よく燃焼され、生活のサイクルがより豊かな方向に向上したと体感している。
 1の棒は傘を挟む棒。これを利用することで、合法的に傘さし運転をすることが可能になった。2は先ほどの話で出て来た百円ショップで購入した自転車のカゴ用ゴムネット。これを装備することで大切な機材や荷物がカゴから飛び出るのを防げるのと同時に、貴重品などのひったくり被害の可能性を下げることもできる。100円で購入できる機能美の固まりだ。3はiPhoneを自転車にマウントする為のケース。ここにiPhoneをはめることにより、iPhoneのgoogle mapをたよりながら道の分からない行き先へ向かうことも可能だ。このケースはケースごと取り外すのも容易で、大変重宝している。盗難の恐れがある場所では4のケースに入れて隠しておくことも出来る。4のケースにはiPhoneの外部バッテリーを入れている。これにより、3のケースに入れてiPhoneを使用しながら充電も可能になり、バッテリー切れの心配を解消できた。5は見えづらいが、傘フォルダー。安全で抜き差しも簡単だ。これも百円。
そしてこの赤い洋服が、実は、かなり本格的なレインコート。頭にはかなり大きめのツバがついているので、多少の雨くらいでは顔も濡れない。このツバのおかげでもはや、ファッション性のカケラすら感じらない。私がこれを来て電動ママチャリを乗り回していたらそれだけで変質者に思われる可能性もある。鞄に尺八など入っていようものなら、もはや意味が分からないかもしれない。だが、とにかく便利で、腹の部分が大分長くなっていて、自転車のカゴまですっぽりかぶせることができるので荷物まで雨から守ってくれる。このファッション性のかけらもない赤いレインコートを購入することによって、自転車の欠点のひとつである雨の問題も解消するに至った。ちなみにこの写真をよく見ると分かるかもしれないが私が使っているiPhoneとiPhoneケースの間にはPASMOが入っている。こうすることによって、iPhone弱点のひとつ、お財布携帯機能の欠落を補うことができた。ただ、これを真似しようと思っている人はひとつだけ注意して欲しい。ただiPhoneの裏に電子カードを張るだけでは電子カードは正しく動作しない。iPhoneとカードの間に、電磁波遮断シートというものをはさめないと、電磁波が干渉してうまく機能しない。



これは何だろうと思う方もいるかと思うが、これは尺八の内側についた水滴を取るためのスワブ。先っぽにおもりをつけて、そのおもりを尺八に通して紐をひっぱって内側の水滴をとるものだ。私の場合はこの先にボールペンをつけている。おもりのかわりにこれをつけることにより、演奏現場で譜面への書き込みが容易になった。これにより若干の機能性があがった。

この鉛筆キャップはやはり機能性の固まりである。
なんとキャップの裏側には鉛筆削り機がついているのである。これで安心して鉛筆を持ち歩き使用できるようになった。これは3つで百円。これを発明した人に感謝の気持ちを伝えたい。

これはiPad用のスタイラス タッチペン。
このように、iPadのメモアプリや絵描きアプリをする時にあると便利。私は誠実です、と発言する人は果たして本当に誠実なのだろうか。

なお、このスタイラスタッチペン、キャップを取ると普通のボールペンとしても使える。そしてこれもなんと値段が百円。iPadにも紙にも書けるという機能美にさらにコストパフォーマンスまで加わると、もうぐうの音も出ない。

これは、既に知っている人も多いかもしれないが、消えるボールペン。しかも3色。
これをペンの先の部分でこすると
消えるという優れもの。ボールペンなのに消すこともできてなおかつ3色使える。これも機能美の固まり。

そして、このカメラの下についた緑色の、若干気味の悪い三脚。ゴリラポッドと呼ばれるこの三脚だが、足も首も自由自在に動く。つまり
このようにどこでも突起物などがあればくくりつける事ができる。そして、このiPhoneをはさんでいる白い部分(ネットで100円)をつけるとiPhoneをとりつけることもできる。この三脚のがあれば、いろんなところで固定してビデオ撮影もできるし、セルフタイマーをつかって集合写真を撮ることもできる。これも機能美の固まりだ。

これは何を紹介したいのかというと、ジップロックなのだが、iPadをジップロックに入れることによって、風呂でも使えるようになる。ちなみに百円ショップにある皿のスタンドに立てている。これらの装備をすることによって、風呂につかりながらiPadでネットサーフィンなどをできるようになった。仕事から帰った後のiPadとの入浴は、私にとって、1日の疲れを洗い流してくれる至幸の時間である。
 あと、当たり前過ぎて書き漏らしていたが、このiPadがまた自分にとっては機能美の固まりだ。自分は職業柄、多くの譜面を持ち歩く必要がある場合が多いが、何十冊分の楽譜のデータを全てこのiPadに入れることができた。それによって、肩こりの元になる大量の譜面の束を持ち歩くという行為から解放され、いつ、どのようなリクエストがこようと、その場で譜面を表示して演奏できるようになった。iReal Bと呼ばれるアプリなんかのコード譜面は移調できるし、オリジナルを入れておけば、その場にいるiPhoneユーザーと譜面を共有することもできる。他には、耳コピアプリを使えば、スロー再生だって1部分のループ再生だってできる。写真だって楽譜だって漫画だって動画だって持ち歩ける、辞書にもなる、もう書きつくせない程の機能美をもたらしてくれた、iPad、iPhoneなどのデバイスなしの生活には、もはや、戻れる気がしない。
 少し話は反れるが、うちにはテレビがない。あまり見たくなるような番組がないし、テレビを置くことによって部屋が狭くなるのが嫌だからだ。だが、どうやら、ソフトバンクセレクションという物があると、テレビがなくても、iPad、iPhone、macでテレビの地デジ放送がワイヤレスで見れるのだ。これは無線ルーター兼地デジチューナーで、なおかつその地デジ放送をWiFI経由でワイヤレス配信してくれるという優れもの。これさえあれば、風呂でもトイレでも地デジを見ることができる!テレビにはそんなに興味はないがキラリと光る機能美。欲しい。
 ということで、これを私にプレゼントしてくれる人がもしもいたりしたら、機能美至上主義の私は歓喜し、もはや感謝の念を伝え切ることはできず、一生かけて恩を返そうとし続けるであろう。
 話が反れたので戻るが、

ここは私の城。1はこのPCデスクにティッシュを装着した。これもゴムでぶら下がっているので取り外しが楽だし、デットスペースの有効活用として上手く機能している。2は若干見えづらいが、ヘッドフォンがぶらさがっている。デスクの裏側にフック型のネジを打って、そこにぶらさげた。この位置が、手にとったり外してぶら下げるのにベスト。3は、2と同じようにゴミ袋をぶらさげられるようにした。ティッシュとゴミ箱は近いと利点が多い。4は電源を裏から引っ張って来てiPhone充電器をつけた。ここに充電器があると、充電した状態でPCのとなりに置けてベスト。5の下にはオーディオインターフェイスと呼ばれる録音に必要な機材の一つが繋がれている。これの操作するのに邪魔にならないよう、コ型の台と組み合わせることにより、iPadは上に移動、PCのサブディスプレイとしても利用できるし、インターフェイスの調整も、物をどかさずにできるようになった。6は尺八置き。ここに置けば尺八が転がって行く心配がない。

このように、いつの間にか私は、機能性を基準にして集まったものに囲まれる生活を送るようになっており、それはすなわち、私の思想が機能美至上主義であることを裏付けるのに十分だと感じた。私自身、この機能美至上主義が絶対正しいと言い張るつもりもさらさらないし、この思想を人に押し付けるつもりも毛頭ない。毛頭といえばIPS細胞の研究により、近い将来ハゲが治る時代が来るかもしれないというニュースをみて、今後の自分の頭皮にも幾分かの安心感のようなものを覚えた。ただ、ハゲていようが太っていようが、そんなことは演奏で圧倒出来る自分を目指して日々練習しているので、IPSの研究は当てにせず、頭皮を労りながら、日々精進していきたい。
 話は反れたが、主義主張や価値観というものは本当に人それぞれ、人の数だけあると言っても過言ではない気がするし、使用済みのティッシュまみれの母の鞄やポケットの中にだって、論理性はあるかもしれないし、もしかしたらそこには廃物利用の精神があるかもしれない。もしくは、「論理性なんてどうでもいい」という論理があるかもしれない。そもそも論理があることが正しいと言い切れるかと言ったらば怪しいところだ。大切なことは、自分と違った思考回路や行動原理、論理を持った人が目の前に現れた時に、自分の価値観を押し付けないことだと思う。ここを気をつけないことには、世の中から争い事はなくならないし、みんなが幸せを感じられる世の中はいつまでたってもやってこないと思う。これからもいろんな人の論理に触れて、納得いくものはどんどん吸収して、いい具合に今の自分の論理を論破される機会があれば、すなわちそれはさらに自分の価値観に磨きがかかった、レベルがあがったともとらえることもできるだろうし、向上心を持って生きていれば、歳をとるとともに自分の価値は向上するはずだし、そうすることによって、より自分を好きになって行けるであろう。
 とまぁ、この文章のどこに落としどころをつけていいかがだんだんわからなくなってきたので、今日はこの辺で失礼ぶっこくことにする。
 こんな長い
駄文をここまで読んでくれた皆様に感謝の意を伝えるとともにこの文章は一旦終了。


さいなら
 

2012.10.08 Monday

ご無沙汰しております。

  みなさんこんにちは。本当にご無沙汰なブログで大変申し訳なく思っています。しかしながら、この状況はなかなか進展しないかもしれません。悪いとは思っているけど、改善する気はそんなにないんだろ、と思われても仕方ありません。はい。
 ところで、近頃の私の近況を報告させていただきます。私事で大変恐縮ではございますが、先月、一児の父親になりました。娘誕生です。既に父親になった知人などからは、「子供が生まれたら世界が変わるよ」といった類の話はいくつか耳に入れてはいましたが、本当にここまで世界が変わるとは思ってもみませんでした。全てが輝いて見える!眩シーを遥かに通り越して眩D、いや、眩Z!!!!!!!!!!!!!!!!!
 はい、失礼致しました。とにかく、どんな辛い事でも乗り切れるような、スーパーマリオの世界で言う所のスター状態が未だに続いている感じです。
 
 
お祝いの品などもたくさんいただきました。この場を御礼を申し上げます。

今後は、自分の為、嫁の為、そして新たに誕生した娘の為、そして応援して下さっている皆様の為にも、ただひたすら精進し、いい音楽を生み出していけるよう、更なる努力させていただきますので、どうぞ今後とも、ご声援の程よろしくお願い致します。

2012.06.06 Wednesday

ご無沙汰しております。

  どうもご無沙汰しております。久々にネット上のデータなどを整理してたら、過去のブログを発見したので、今は更新してないし、紛らわしいのでアカウントごと削除しようと思ったんですが、軽く読み返してみたらちょっと面白かったので、削除はしないことにしました。でも、紛らわしいので、小林鈴勘のブログではなく、小林鈴勘のブログ跡地と名前などは変えておきました。
 過去の自分の感じて書いたことって面白いですね。日記というものは、時間がたってから読むのが醍醐味なんだなと思いました。これが、あと10年後、30年後、50年後に読み返したら尚面白いんだろうと思いました。

旧 小林鈴勘のブログ↓


 さて、久しぶりに重い腰を上げて更新する気になったので、小林鈴勘の近況などを気まぐれに書き綴ろうと思います。最近は、「一日一食ダイエット」なるものをしています。別にダイエットのつもりはそんなにないんですが、人間には、サーチェイン遺伝子とかゆーのが備わっていて、壊れた細胞を治してくれたりする機能を持ってるらしいのですが、このサーチェイン遺伝子が、なんと空腹の状態が続くと活発化するらしいのです。そして、モルモットの実験では、一日おきにエサを与えると、一番サーチェイン遺伝子が活発化して、寿命も、毎日エサを与えられてるモルモットより遥かに長生きするとゆーデータが得られたそうです。人間でも、1日置きの食事が一番効果的らしいのですが、さすがにそれは精神的にも辛いとゆーことで、1日1回の食事にしているわけです。気のせいかもしれませんが、これを始めてから、異常なほど体調が良いです。昔は不整脈が若干あったのですが、最近はまったく無い(ような気がするだけかもしれないw)そして、食事が美味しい。

 まあでも、全部気のせいかもしれないので、この記事を信じるか信じないかはご自身の責任でお願いします。

では今日はこの辺で。
2011.11.10 Thursday

Paris



10/30~11/7まで、仕事でパリに行って来ました。演奏は2日に分けてありましたが、通常通りというか無事終わったんですが、演奏のない日に観光に行ったり、ジャズクラブに行ったりして、いろいろ思ったことを書き綴ろうと思います。 共演した地元のベーシストに誘われて、演奏を聴きに行ったり飛び入りしたりしたんですが、どこも、ミュージックチャージがタダ。プロの演奏をタダで聴きながら、かなりお洒落な空間で酒が飲める。だから、どこのジャズバーも立ち見が出るくらい満員御礼。思えばニューオリンズのジャズバーはほとんどの店がタダだった。飲食代のみ。ただ、ニューオリンズの場合は、ミュージシャンのギャラはチップ制なので、ステージが1番盛り上がってきたところで投げ銭入れが回って来る。よって、チャージがタダとは言い切れない。パリの場合は、違った。チップの文化がないわけではないけれど、アメリカほど徹底されてはいなかった。でも、パリではミュージシャンのギャラはちゃんと店が保証している。いいライブを入れれば必然的に売り上げがあがる→ギャラも払える。音楽の教養のある人がどんどん増える。ニューオリンズにしてもパリにしても、客と生の音楽の距離が近いのは確かだと思う。それに引き換え、日本は人と、生の(本当にいい)音楽の距離が本当に遠く思える。ミュージシャンの質に限っていえば、日本も世界にひけをとらないと思う。ただ、その世界にひけをとらない素晴らしい日本のミュージシャンの演奏を聴くのには結構な金がかかるのは、やはりもったいない気がする。日本のどこのジャズバーに行っても、ミュージックチャージは大体は3000円前後はかかる場合が多い。それに、テーブルチャージに飲食代もあわせると、簡単に5000円はいってしまう。5000円の価値を分かってくれるお客さんももちろんいる。ただ、問題なのは、まだ5000円分の価値を知らない人が思い切って店のドアを開けるのが、どれだけ勇気のいることか。これが、ミュージックチャージタダの店ならば、思い切って入って、仮に演奏が気に入らなければ、1杯だけ飲んですぐ店を出ればいい。そして、もっと好みの演奏を求めて他の店へ行けばいい。そして、いろんな人の演奏を生で聴けば聴くほど、耳が肥えていく。そうして、より文化と人との距離が縮まり、民度も文化レベルもあがっていく。耳が肥えたら、本当に気に入った、いい演奏家の演奏だけ聴きにいけばいい。そのようなリスナーの割合が増えていけば、実力のないミュージシャンは辞めていかざるをえなくなるし、力のあるミュージシャンは生き残れる、健全な状態にすこし近づくかもしれない。日本では、 実力は世界の5本の指に入るであろうプレイヤーのある日のライブの客が1人だった、なんてことがある反面、全然うまくないのに、有名なアニメの音楽を担当したってだけでいつでも店を満員にできるミュージシャンがいる。 テレビに映ってるから凄いだとか、大きいホールでやるから凄いだとか、海外で演奏してるから凄いとか、CDを出せば凄いとか、そんな尺度でしか芸術を判断できない人が、少しずつでもいいから減っていくような構図を作れないものか。ただ、これは、原因を考えると、思いのほか深刻。 クラシック音楽が生まれたヨーロッパ。何故ヨーロッパからクラシックが生まれたのかをたぐると、街の作りと紀行が絡んで来る。街のほとんどは石で出来ていて、石と石の間に囲まれた空間でなおかつ湿度が低いと、音がよく響く。音がよく響くと、倍音が聴こえる。倍音が聴こえることにより、1オクターブを12音で分ける平均律が生まれる。そうするとどんどん音楽が膨らみ、発展していく。 それにひきかえ、日本は昔は、家が木造、そして湿度が高い。当然その環境の中では倍音は聴こえづらい。よって、西洋音楽が日本に入ってくるまで、平均律がなかった、までとは言わないにしても、実用レベルは西洋に比べ、大分出遅れていた。(これは平均律が最も優れている、と仮定で話を進めているけれども、そもそも個人的には文化自体には優劣はないと思っています。日本の和音階と平均律とインドの音階のどれが一番優れているか、という問いは愚問。) つまり、平均律をもとに作られる音楽に関しては、まず日本はスタートの時点で、西洋に出遅れていた、というのがまず考えられる原因のひとつ。それでも、グローバル化が進んで、日本のプレイヤーのレヴェルが、世界に追いついただけでも、御の字なのかもしれない。ただ、残念がなら、リスナーの平均のレベルはまだ達していない(もちろん恐ろしく耳が肥えてるリスナーもいるし、何にも例外はつきもの)。 もともと音楽との距離も、スタートの時点で出遅れてた。それで、さらに、日本のジャズバーの料金が高く、敷居が高い。高いのは何故か考えると、これがまたどうしようもない話だけど、地価が高い。テナント料が高い。店が狭い。極論、日本が狭い島国。狭い店なのにテナント料が以上に高い→チャージを高くするしかない→生演奏に興味があるけど入る勇気のない人がどんどん断念する→一向に耳が肥えない→歌は下手だけど美人なアイドル歌手が売れる→力のあるミュージシャンが苦しむ。。。。。。。。。。見事な負のスパイラル。 ヨーロッパでは平均律が生まれたけど、それがアメリカではそれを元に、ブルースが生まれた。ブルースがジャズに代わり、即興演奏を見事体系化した。ヨーロッパではクラシックを生んだけど、アメリカは、即興演奏を生んだ。どちらも、人と音楽の距離はとても狭い。そもそも距離なんてなく、生活と結びついている。日本が今後どうなるのか分からないけど、なんとかできないものかと悶々と日々悩んでいます。 話は変わりますが、パリのジャズはどうだったのかというと、それはそれはお洒落でした。パリは、道行く人がお洒落(ホームレスまでお洒落だったw)で、レストランもお洒落。人間的にもお洒落。そして演奏もお洒落。まるでフランス料理のように上品でした。ニューヨークは、何でもかんでも「Cool」で形容できたような気がします。ニューオリンズは、「Hot」な印象。快楽主義。音楽やってたらもう友達だぜ!的な。それで、どれが個人的に好きかと言われるとなかなか甲乙付けがたいですが、パリは、好きです。米は最悪にまずかったですけどw あと、尺八ウケは、ニューヨークよりニューオリンズより、日本より、断然パリがよかったです。 ところで、あとひとつ驚いた話があったんですが、フランスでは、ミュージシャンの税金が、なんと-100%。仮に、月30万ミュージシャンが稼いだとなると、確定申告の時期に、同じ額の金額をフランス政府がミュージシャンに払うらしい。収入が倍。とにかくフランスは、国家ぐるみで、ミュージシャン、芸術家を保護しているということです。もちろん、稼ぐ金が、ある一定のラインを超えると、国からの支給はなくなるらしいですが、そのボーダーは恐ろしく高い額で設定されてるので、まずそこに到達することはないらしいです。 どうりで、彫刻や絵画、音楽、どれもどんどん発展するわけです。おそらく昔からそうだったんじゃないかと思います。ルーブル美術館も行ってきましたが、あまりに凄過ぎる作品と規模も、納得がいくような気がします。
2011.07.04 Monday

Life in NY




どうも、ご無沙汰しております。日本を飛び出してはや3週間が経ちました。こちらに来てまず思うのが、日本食のありがたみ。「音楽の話じゃないのかよ!」との突っ込みありがとうございます。でも、食事は、全ての行動の根源的存在で、ハイオク車なのに軽油でエンジンを回しているような気分になってきます。全ての行動の中には、勿論音楽活動も含まれているわけで、血液の成分が変われば音楽も変わって当然だと思います。自炊してる時はよいのですが、ひとたび町で外食しようものならば、なんともみたされない気持ちになることが多いです。 比較的美味しいと思えた外食といえば韓国料理。日本に住んでたころは文化が近いなんて思ったことありませんでしたが、アジアっておおよそ味の方向性が近いんだなと、思ったりもしました。 音楽については、2年前にも感じたことだけど、やはり、音楽と人々の距離は日本なんかよりもずっと近い。日常の中に生演奏が当たり前のようにある。日本でちゃんとしたレヴェルのジャズを聴くとなるとほとんどの場合、当たり前のようにお金がかかる。NYでもダウンタウンの方だと、カバーチャージ制が多いけど、それでも値段は格段に安い。今住んでいるハーレム地区では、そもそもカバーチャージがない店の方がほとんど。地元のおじいちゃんおばあちゃんから若者まで、みんな夜な夜な音楽が溢れて来るお店の中に吸い込まれていく。当たり前のように演奏を聴きながら演奏にも耳をかたむけたり踊ったりする。いい演奏をすれば拍手をするしよくない演奏であればあまりレスポンスをしない。ミュージシャンでない人々でもみんな音楽が大好きなのだ。とにかく生活の中に音楽が自然にある。  こっちにきて驚いたことのひとつに、町中に生のピアノが点在しているということ。「雨が降ってる時はカバーをかけてあげてね」「次に弾く人が待ってるときは10分くらい弾いたら譲ってあげてね」なんて書いてあるだけで、タイムズスクエアーにもセントラルパークにもコリアンタウンにも、とにかく町を歩くと何故かピアノが置いてあるのだ。最初みた時は、気合いの入ったストリートミュージシャンが頑張って持って来て演奏してるのだと思ったら、(そういう人もいた…グランドピアノを公園に自分のトラックで持ち運んでた…何をするにも規模が凄いと恐れおののいた…)公共のおもちゃとして置いてある…。日本では考えられない光景。そのピアノはやはり人気もので、いつも誰かが弾いている。たまたまそこであった人たちが仲良くなって合唱し始める光景もみた。子供が弾いてる時もあればおじいさんが気持ち良さそうにクラシックを弾いてるのもみた。鍵盤中毒症になりつつあった自分も、この町に無造作に置いてあるピアノに随分助けられた。上の写真もそのピアノの一つ。これはセントラルパークにあったもの。随分いろんなパーツがついているw。ピンク色ものあったし水色のものもみた。音楽だけでなく、アートとも生活が近いのが伺える。セッションへ行けば勿論ピアノは弾かせてもらえるけど、はっきり行って自分のピアノのレヴェルじゃ、お粗末過ぎてまったくもって飛びいるような気分にはなれない。本業の尺八で参戦すると、みんな目玉をぱちくり開けて釘行ったように見られる。珍しさでひとしきりびっくりしたあと、演奏がよければ人気者に、うまくいかなかった時はそこそこの拍手。この分かりやすさが、ミュージシャン的には最高に気持ちよくて、癖になる部分。結局まずい飯や治安の悪さに我慢しながらもこの地にたっているのはこれが理由と行っても過言ではないかもしれない。 治安といえば、ちょっとした事件が1週間ほど前にあった。空き巣が入ったのだ。空き巣といっても、厳密にはベットで爆睡していたので、違うのだけれど、ある日扉の呼び鈴が1~2分うっすらなり続けていた。14時頃。しかし 夜な夜なセッションやライブに繰り出す生活に慣れて、14時にして布団の中で眠っていた。呼び鈴が止まったなぁと思いながらも無視して眠り続けていたら、今度は自分の部屋の扉ががちゃがちゃ揺れ始めて、(部屋の扉にも鍵はかけてある)ぼけぼけしながらもさすがに目を開け扉を見ていた。そしてがちゃがちゃし始めて1分後くらいにいよいよ扉が空いてしまった。そして赤い服を着たアフロヘアーの黒人が入ってきて、目があって、「あ、いたの?ハロー」みたいなことを言って部屋から出て行った。始めは何があったから分からず唖然としてたけど、すぐに泥棒だと気づき、家中を探したけど、とっくに逃げたあとだった。とにかく部屋にいたので、何も盗られることはなかったけど、何も危害を加えられたわけでもないのでよしとしてますが。  っと、夜も更けてきたので今日はこの辺で失礼します。ではまた。
Powered by
30days Album